プロフィール

イザク

Author:イザク
好きな物・好きな人(順不同)

昔のSF。宇宙とかロボットとかそういうSFっぽいもの。
本一般。映画一般。特撮ヒーロー。仏像。友情モノ。
西尾維新先生。舞城王太郎先生。荒木飛呂彦先生。奥泉光先生。円城塔先生。津原泰水先生。山岸涼子先生。松本大洋先生。三上骨丸先生。白鵬様。食パンちゃん。

カテゴリ

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:


心が曇っているとSFも素直に楽しめなくなるものであるなあ。
yjimage.jpg
ピーター・トライアス著:ハヤカワSF文庫。
ハヤカワSFシリーズ版も同時発売。

お正月休みに、久々に青い背中のハヤカワSFでも読もうと思い、表紙絵のカッコ良さにつられて上下そろえて買って読んでみたのですが・・・コレって表紙詐欺じゃない!?

「第二次世界大戦で日本がアメリカに勝利した世界。日本の統治下にある現在のアメリカで、『もしあの戦争でアメリカが日本に勝っていたら・・・』という内容のゲーム、『ユナイテッドステイツ・オブ・アメリカ』が人気を得る・・・」という、古いSFファンならすぐに、
「それってディックの『高い城の男』じゃないですかー!」
と喰いつくこと100%の内容です。
もちろん、ディック作品へのオマージュであることは作者自身が語っていることなのですが、本の帯にね、
「フィリップ・K・ディック『高い城の男』&『パシフィック・リム』の衝撃!?」って書いてあってね、あのディック作品を21世紀のオタク趣味満載で今風に蘇らせてくれたのなら、それは絶対面白いから読まねば、と思ったのですよ・・・。

結論から言うと、巨大ロボットはほとんど出ない(笑)
っていうか、この世界観にロボットが出る意味が分からない。日本軍、なんで唐突にこんなもの作ったの?(笑)
小説の中の「現在(1980年代)の」USJ、つまり日本合衆国は確かにハイテクの国ではあるのだけど、海の底からカイジュウが襲ってくるわけでもないのに巨大ロボって不要でしょ。開発費、維持費だって莫大だと思うし。
そもそも第二次世界大戦中にこれらのロボットはすでに開発されていたらしいのですが、それって日本またはドイツが何らかの形で(経済的に強かったとか資源豊富だったとか天才科学者がいたとか)実際の歴史とは違って、連合軍を圧倒していたということで、そこらへんの説明が無いままにいきなりこんなモノ出されても・・・。
しかも、必然性が無いシロモノなので、作中でも生かせておらず、「ここは別に普通に戦車とか戦闘機で良くね?」と思ってしまうのですよ。
いや、SFなんだから、絵空事なんだから、派手なほうがいいじゃない、という意見もあるかと思うのですが、絵空事には絵空事なりのリアリティが欲しいんですよ(SFファンはこういう部分にはうるさいと思う)。
ただ、「日本っぽい=巨大ロボ出しとけば良くね?」っていう、安易な発想に思える・・・。

んでもってね、この本では、作中の「現在の」日本合衆国が、戦時中と同じく特高警察による監視社会なのですよ。
戦争終わって何十年もたってるのに何故!?
確かに戦時中は、軍部の暴走とか中央集権的な思想強制みたいのあっただろうけど、「天皇陛下万歳~!」の精神で戦後数十年もの間アメリカを強権支配、とか、今現在のこのユルユルな日本を知っている身としてはあまりに現実と乖離というか、リアリティがなさすぎると思います。ディックの時代ならともかく。

主人公のベン(日本名は紅功)は少年時代に両親を「反社会的である」という理由で告発した過去を持っているのですが、そんな、中国の文化大革命みたいな、ちょっとでも密告があれば特高がやってきて無実の人間でも捕まえて、拷問して偽の自白をさせて処刑、みたいな社会、SFの世界の中だとしても、日本人としてあまりに無理があるというか素直に楽しめないというか。
いや、これがドイツ人の作った社会、と言われてもやはり納得できない。中国人の社会って言われたら納得するかも(笑・・・これってヘイトスピーチ?)
ベンが両親を密告する背景には泣かせる事情があって、この本の感動ポイントになっているのですが、なにしろそんな風に、日本人が必要以上に意地悪というか悪辣に描かれていて、話に入っていけませんでした・・・。

・・・とまあ、ここまでなら「期待したのに、残念だった。まあ、海外SFによくある『勘違いニッポン』だよね」で済む話なのですが。
訳者あとがきを読むと、作者のピーター・トライアスは韓国ソウル生まれで、アメリカと韓国の両方で少年時代を過ごしているのです。「アジア系アメリカ人」とも書かれていますので、人種的には韓国人で、「ピーター・トライアス」という名前はアメリカ人になった時につけた名前と思われます。
でもって、参考文献の中にアイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ南京」が。
まあ他にも沢山の本や資料にあたったようですが、第二次大戦中の日本を調べる資料として「ザ・レイプ・オブ・南京」の名を挙げるのか・・・?
日本に対する悪意、というか少なくとも日本に対する色眼鏡があったと言われても仕方ないんじゃないかな。
まあ私も、彼が韓国人だということで色眼鏡で見ているわけだが(またもやヘイトスピーチ)。
なんかね、日本のオタクカルチャーを楽しみつつ、人種としての日本人をサゲて日本のイメージを悪くしようという意図が感じられると言ったら言い過ぎでしょうか。
こんな事が気になって素直に小説の世界に入れないなんて、やはりSFは心が若くないと楽しめないのでしょうか。

っていうか、数十年ぶりにディックを読み返してみたくなったよ。
「高い城の男」は、易占をモチーフに現実と仮想世界が重なるディックらしい作品で、読んだのは中学生くらいだったと思うけど、すごく面白かった記憶があるもんなあ。日本人の扱いがどうだったかは忘れてしまったけど。
あのころは、日本人がサゲられていてもそれはそういうものとして面白がる心のゆとりがあったのだが・・・。

スポンサーサイト
51Snxo2DBLL__SX315_BO1,204,203,200_ジャンプコミックス 原作:西尾維新 作画:暁月あきら

「めだかボックス」の黄金コンビが帰ってキター!!!

ジャンプ漫画の中でも異彩をはなち、独自のポジションで今もファンの多い「めだかボックス」の、西尾先生と暁月先生の新作がキター!!!
しかも、「めだかボックス」の球磨川くんみたいな自意識こじらせ少年と、安心院さんみたいな天真爛漫前向き美少女との心の触れ合い・・・っていうかすれ違いっていうか、もう最初の数ページから濃厚な西尾ワールドで、久々にこの毒っ気を浴びて心地よいのなんの(笑)
暁月先生の作画も冴え渡っており、魅力的なキャラ造形と豊かな表情、かつまた漫画表現として新しい手法があちこちに見受けられ、1冊のコミックスを読んでこんなに充実感と満足感を覚えたのは久々のことです。
(「モブサイコ100」はまとめて読んで感動する作品なのでまた別枠で)

主人公の少年(名前は明らかにされず、ただ「少年」でしかない)は、周りの人間がすべて無個性な黒いノイズのようにしか見えない奇病にかかっている。この病気にかかると、12歳の誕生日の日に死んでしまう。
平凡な自分の人生を悲観していた少年は、悲劇的で珍しいこの病気にかかったことで「見下されることの快感」を味わうが、もう一人、同じ病気にかかっている少女に出会い、彼女の圧倒的な個性と溌剌とした美しさに惹かれ、また嫉妬もする。
自分だけがこの奇病にかかった特別な人間でありたいと願う少年は、少女を殺そうとチャンスをうかがうのだが・・・。

↑こうやって書いてみるとメチャクチャなあらすじですが、コミックス読んでる間はすごい引き込まれてあんまり不自然にも思ってなかったなあ・・・。登場人物の内面を伝えきる、暁月先生の表現力のおかげだと思います。
少女が他の人を見るとき、顔にキラキラのモザイクがかかっているのもなんかキレイで可愛い。
(あと、少年と少女がいろんな表情をしている見開きページがあって、少年の「人を見下す表情のクオリティの高さ」には笑った)
12歳になると死ぬ、というところがポイントで、ようするにこれは、大人になれない子供たちの物語。
小学校高学年あたりで、周りの大人が全部「社会の歯車」みたいに見えちゃって、同級生たちも「何も考えていない良い子たち」に見えちゃって、「世の中に、何かを真剣に考えているのはもしかして自分一人なんじゃないか?」って思っちゃう子供って、いるよね・・・?
頭の善し悪しに関係なく、そういった「実在の不安」とでも言いたいような自我の目覚めを大人になる直前に経験する子供は少なくないと思うのですが、そういう、子供のころの不安を強烈に思い出させてくれるコミックスです。
ニヒルに、漠然と死を願っていた少年が、少女と出会い初めて熱を帯びて他人に接する(少女が将棋でわざと少年に負けたとき、少年が本気で怒るシーンが印象的)、初めて他人に真剣に興味を持つようになる、ボーイ・ミーツ・ガールのラブストーリーでもあります。

最近、西尾先生は続きものが多くて、正直マンネリ気味では? と思い、新作を追いかけるのもやめてしまっていたのですが、こんなに生きの良い、独特な西尾ワールドの原作を手掛けていらしたとは、嬉しい限り。
西尾×暁月コンビは「大場つぐみ×小畑健」に並ぶ黄金コンビだとひそかに思っていましたが、この「症年症女」でそれが証明されて嬉しい限り。
ただ、このコミックス、1巻でまだ続きがあるのですが、この先続けても仕方ないような気もするのですが・・・。設定の驚きが新鮮なうちに、サクッと終わりにした方がいいと思います。っていうか1冊でまとめて欲しかった。
ジャンプ系の場合、下手に人気が出ると終われなくなってしまうので、そこだけが唯一心配です。

61gNCQJUXqL__SX336_BO1,204,203,200_
津原泰水・著
幻冬舎・発刊

待ちに待った津原先生の新刊は、なんとも心躍る天才引きこもりたちのクライムノベル。
いや、クライム(犯罪)っていうほどの犯罪じゃないけど、なんかこう、仲間たちと組んで世の中を裏側からひっくり返すみたいな痛快感は、例えば伊坂幸太郎の「陽気なギャングが地球を回す」に共通する感じで、読んでいて楽しいんです。
しかも、この本の登場人物の多くは最初引きこもりなのですが、セラピストを名乗るJJに上手く乗せられて与えられたミッションをこなすうち、少しずつ、お互いにも社会にも心を開き、自分を肯定する強さを身につけていく。そこらへんのさじ加減というのがまた、津原先生ならではの繊細さで、甘すぎず、押しつけがましくもなく、けれどもしっかりと手を引っ張ってくれる感じ。
私は引きこもりになった経験が無いのですが、もし自分が10代のころ引きこもりになって、親とさえろくに喋らなく、こんなJJみたいなセラピストが現れたら部屋に入れて色々と話をしてしまうだろうな、という気がします。
JJは胡散臭い男なのですが、「正しい」ことを押し付けず、しかも情熱的。腫れ物にさわるような気の使い方はしないけど、そのぶん、ちゃんと相手を見てくれているんです。

JJが声をかけた4人のヒッキー(引きこもり)たち。
音声担当の少年、洋佑(コードネームはタイム)。
美術担当の美少女、芹香(パセリ)。
中年ハッカー、聖司(セージ)。
年齢性別不詳、コンピュータウィザードのロックスミス(ローズマリー)。
4人のコードネームはもちろん、サイモン&ガーファンクルの往年の名曲、「スカボロフェアー」より付けられたもの。昭和に青春を過ごした人になら、すぐにピンとくるネーミングですw
JJはまずこの4人に、「不気味の谷を越えた美女を創ろう」と持ちかける。
興味を惹かれた4人が、それぞれの得意分野を活かしてネット上で意見を出し合い、「アゲハ」という名の美女を完成させネットに流す。アゲハはたちまち話題となり、JJは次のミッション「未確認生物UMAを創る」を4人に与える。
その影で「ジェリーフィッシュ」と言う名のもう一人のコンピュータウィザードがJJたちのプロジェクトに侵入してデータを盗み、ウイルスソフトとしてばらまいてしまう・・・。

JJの真意がどこにあるのか、分からないままにそれぞれの意地やプライドをくすぐられて、少しずつ乗り気になっていくヒッキーたちの心理が丁寧に描かれていて、青春小説としても読めてしまいます。
津原先生の小説の登場人物たちはいつも心優しくて繊細で、そのぶん、傷つきやすくて心の病気を抱えていたりもするのですが、おそらく津原先生ご自身が、そんな、繊細な心をお持ちなのでしょう。そしてその繊細さが、弱弱しさというよりは鋭い刃物やカットされた宝石のように光り輝くので、津原先生の小説に出てくる人物(特に男性)は常に魅力的なのですよ!
同じく津原先生の、「たまさか人形堂物語」に出てくる人形師たちは別に引きこもりじゃなかったけれど、それぞれ違った魅力と繊細さを持っていたのを思い出しました。
ガサツで押し出しの強い、無神経な俺様たちの世の中に疲れたら、津原先生の世界で癒されましょう!

最後の方で明らかになる、ジェリーフィッシュの正体やJJの本当の目的など、見かけの派手さ(装丁もかなり派手)のわりに、最後まで心優しく後味の良い小説でした。とにかく、登場人物がいい人ばかりなので、みんな幸せになって欲しいと願わずにいられません。

ただこの本に出てくるヒッキー達、みなさん何らかの才能を持っているのよね・・・。
最後まで正体不明、コンピュータの向こう側にしかいないロックスミス(最後の方で「キャプテン・フューチャー」の箱男、サイモン博士みたいになって出てきたのにはワロタw)はともかく、本当に引きこもりで苦しんでいる人って、自分には何のとりえもないと思いこんでいるから苦しいのかと思っていたのだけど・・・。
この本に出てくるように、ある種の才能を持っているがゆえに、そこに他人が侵入してくることに耐えられなくて引きこもってしまう人もけっこう割合としては多いのかな。
インターネットという便利な道具を使って、ヒッキーたちが引きこもったままで世の中を動かしていく、愉快痛快な本なのですが、ついつい、
「これ読んで、『自分には何の才能もないし・・・』って、更に落ち込む引きこもりがいるんじゃないか」
と、ちょっと心配になってしまいました。
41vPtnrbdIL__SX336_BO1,204,203,200_
ダリオ・トナーニ著・久保耕司訳
シーライトパブリッシング刊

日本のSFって英米のSFに比べて世界が狭いっていうか、自分たちだけで通じる部分でどんどん進化して「スゲー!」ってなってて、まあようするにカラパゴス化してるけどそれはそれで質が高いし面白くって、日本に住んでいるとそういう癖のある日本SFと王道を行く英語圏SFの両方を読めるのでとってもお得だなと常々思っておりました。
(SFに限らず、ミステリも文学もそういう出版状況で、更に日本では独自の「歴史小説」というエンタメから学術までカバーする大きな小説ジャンルもある。日本に生まれて良かった!)

この本の訳者あとがきによると、イタリアSFも似たような状況らしく、ワールドワイドな知名度こそないものの、イタリア語で書かれた面白いSFがたくさんあるとの事。
中でも、2012年に刊行され、イタリア国内のSF賞であるイタリア賞とカシオペア賞を受賞した本書「モンド9(ノーヴェ)」こそ、現代イタリアを代表するSFであるという。

「モンド9(ノーヴェ)」と呼ばれる、どことも知れぬ惑星。(モンドは「世界」という意味だから、「モンド・ノーヴェ」は「第9世界」とか「第9惑星」くらいの意味)
未来の地球の姿とも、宇宙のどこかに進出した人類の苦闘の記録とも、まったく異次元の人類の話とも分からない。ただ、ここに登場にる人間たちは現代の地球の人類と、肉体的にも精神的にも大差ない。
モンド9では地表の大半が砂漠で、しかもその砂は有毒。人間が触れると感染し、やがて人体が金属化してしまう。
人間たちは、その砂漠を横断するために巨大な機械の船で航行するのだが、この巨大船がまた、生きる金属とでもいうのか、人間のテクノロジーで誕生したものでないらしく、いつの間にか人間をエネルギー源として取り込もうとしたり、やりたい放題(笑)
宙を舞う無数の鳥たちと巨大船は互いに共生しており、鳥たちが生んだ金属の卵は機械の部品となる。
錆、ねじ、滑車、歯車、配管、蒸気、そして血と肉・・・。砂と金属の世界の話なのに、妙にドロッとしていて内臓の中のような感じ。
暗黒サイバーパンクというべきグロテスクな世界観。

・・・という感じで、まあ、ストーリーがどうこうというより、独特の世界を堪能する小説です。
しかし、これがSF大賞受賞って、イタリア人っていうのはわりとグロ趣味なのかなあ・・・。日本だったら、「好きな人は好きだけど、一般的には・・・」というタイプの小説だと思います。
個人的には、バラードの破滅もの「燃える世界」「結晶世界」あたりがどんどん悪趣味になった感じ、という印象。
あと、オールディスの「地球の長い午後」や椎名誠の「アド・バード」みたいな、想像&創造し放題の未来SFや、諸星大二郎の「生物都市」なども連想しました。
あ、あと西島伝法の「皆勤の徒」も連想したなあ・・・悪趣味度合がいい勝負って感じでw

とにかく世界観がキモカッコ良く、他に似たものがない独特さなのでそこに痺れてしまう人が多いらしく、イタリアではこの「モンド9」の世界を舞台にした20人の作者によるショートストーリー集や、「モンド9」のイラストレーターによるイラスト集も出版されているとのこと。
日本での伊藤計劃×円城塔「屍者の帝国」をめぐる状況とちょっと似ていますね。つまり、イタリアのSFファンや作家さんの間で大人気なのでしょう。
確かに、絵になりそうな世界ではあるし、そもそも作中でモンド9の設定がほとんど明確になっていないので、想像し放題ではありますね。

もう若くないせいか、この手のキモグロには恰好良さを感じられず、あまりピンと来なかったのですが、こういう変な世界を描くSF作家はかなり好きです。このダリオ・トナーニという人、訳者あとがきで紹介されている未訳の作品がやたら面白そうなので、翻訳されればいいなあと思っています。
518-9zClTnL__SX344_BO1,204,203,200_「プロローグ」円城塔・著 文芸春秋社・刊
2015年秋、円城、無双。

「シャッフル航法」
「エピローグ」
「雨月物語 現代語訳 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集11)」
そしてこの「プロローグ」

この秋、円城塔が次々と新刊を発表しています。しかもその内容が、攻めてるっていうか、常に挑戦的というか実験的というか・・・。
一言で言うと「怖いもの無し」、無双状態です。
この感じ、私が若い頃の筒井康隆、「虚構船団」とかを書いてた頃の筒井康隆を思い出すなあ・・・。当たるを幸い、なぎ倒しちゃってるよなあ・・・。

「プロローグ」は作家である「わたし」が、作品の背景となる地「カナン(川南または河南)」と、登場人物となる13の部族を最初に決めて、その登場人物たちの設定、行動を書き継いでいくのと同時に、物語を生成していくプログラムや日本語の表記のことを考察する。13人の登場人物たちは自分の置かれている設定を意識しつつ、物語のはじまりの謎に迫っていく。

大まかに作品を説明すると、こんな感じなのですが、この作品から受ける印象はやはり「私小説」というか、「円城塔のひとりごと」。
円城塔が文章を書くとき、こんなことを考えてるのか、なるほどな、ワッケわからんわ、という感じです。
先日、「シャッフル航法」出版記念サイン会に行ったとき、円城さんが「小説を自動生成するプログラム」の話や、「なぜまだ紙の本があるのか。すべてデジタルデータにすればいいのに」とか、「自分が小説で使う形容詞をプログラムでカウントしてみたら・・・」とか、物語ること、言葉、についてのいかにも理系な発言の数々に驚いたものでした。
しかしあの時の発言の数々は、実はこの「プロローグ」で「わたし」がつぶやいていた言葉の数々と同じだったのね。
そのあたりが、私がこの「プロローグ」対して感じる私小説というか楽屋落ち小説っぽい感じ、やりたい事やっちゃってる感じ、無双っぽい感じのもとになっています。
作品中に作者が出てきて創作裏話を語りだす、こういう事はやはり全盛期の筒井康隆がよくやってた記憶があります(「虚構船団」も第二部が確かそんなパートだった)。

しかし、この「プロローグ」に出てくる13の部族の苗字、というのがなんと、朝戸(アサド)であったり榎室(エムロ)であったり蔵人(クラビト)であったり英多(アガタ)であったりするのです。そう、先月早川書房より発行された「エピローグ」の登場人物たちの名前。
しかも英多は「船長」であったり、榎室は「イザナミ・システム」の開発者であったり、設定までも共通しています。
と、いうことは・・・?
「プロローグ」で名前とともに生み出された部族たちが、架空の地で繁栄し、やがてOTCの侵攻を受けて現実から撤退していく姿を描いたのが「エピローグ」ということなのか?
「プロローグ」と「エピローグ」があるなら、本編もやがて何らかの形で書かれうるものなのか?
作中で語られる、古い地層から出てくる巨人の骨の謎や、駅の地下に広がる空間の謎、などなど、この先に続くと思われる話もありますしね?

内容は私小説っぽいひとりごとの他に、登場人物たちの細かいエピソードの積み重ねですが、中でも妙に日本の遺跡や伝承に詳しい「ペドロ」の薀蓄が面白い。円城塔が理系ひとすじの人ではなく、民俗学的なものも大好きなのがよく分かります。
「日本語」に対する探究心、「日本史」についての興味。
ああ本当に、円城塔はこの先、どんな方向へ向かっていくのだろう・・・。

そしてこの小説が私小説であるならば、「わたし」の周囲に起こることは円城塔の周囲に起こっていることだということになります。
作中で「わたし」の家に赤ちゃんが生まれ、「わたし」はその子の写真をとるためにそれまで興味のなかったカメラを買いあさり、やたらカメラに詳しくなってしまうという、微笑ましいエピソードがあるのですが・・・?
これって、もしかして・・・おめでとうございます?
(ファンだと言っているわりに、円城塔のことを良く知らない)

何はともあれ、もはやひとりごとさえもが文学になる、無双な状態の作家の最新作、ケチくさい日常から離れて頭を柔らかくしたい人にはうってつけです。

51TJjyK7n7L__SX340_BO1,204,203,200_
「エピローグ」は、「屍者の帝国」以来、3年ぶりとなる円城塔の新刊長編小説。
円城塔の作家としての、SF書きとしての充実ぶり、実力のほどを遺憾なく知らしめる傑作だと思います。
早川書房の「SFマガジン」に連載されていたものをまとめた本で、SFくささが満載です!
何しろ、主人公の朝戸連は、人類対OTC(オーバー・チューリング・クリエイチャ、つまり、人工知能が進化しすぎて人類には理解不能になったもの)との戦いに参加しており、その相棒はアラクネという名の超高性能ロボット。そして朝戸は「能力者」というオイシイ設定。この二人の掛け合いが、昔なつかしいスペースオペラの香りがして実に楽しい。
そしてもう一人の主人公、クラビトは多元宇宙で起きる連続殺人事件らしきものを調査する、多数の宇宙を股にかけた宇宙刑事でしかも、実はインベーダーである奥さんとは離婚訴訟中(笑)
古典的というかベタというか、SF好きにはたまらない設定です。
その分、挑戦的というか真っ向勝負だなと思います。
出世作「Self-Reference ENGINE」もSFらしい作品で、話の内容も「エピローグ」に似ているのですが、「Self-Reference ENGINE」が変化球というか、群盲象を評すようなエピソードの積み重ねであったのに対し、「エピローグ」はど真ん中直球です。
しかも、この表紙絵を見ればわかる通り、少年少女のラノベ的なシュチュエーションを多用した初恋物語(実は円城塔の得意技でもある)という側面もあります。側面もある、っていうか実はそれがメインストーリーだったり(ネタばれ発言w)
そして、こうして内容を簡単に紹介すると、実に面白そうで、事実、とても面白かったのですが、何というか、私は多分この面白さの半分も理解することはできないと思うの・・・(T.T)

何しろ円城塔作品なので、難解なのは覚悟の上なのですが、この作品に関しては「難解」というよりもチェスの名勝負を見るような、「何か凄いことが目の前で進んでいる気配は感じるんだけど、全然ついていけません」感がありました。チェスの駒の進め方くらいは私も知っているので、読んでいて、ところどころで「分かった!」ような気になるのです。でも、次のページでそれを上書きするような新しい解釈や新事実が出てきて、というか、この世界での宇宙の法則が一瞬ごとに改変されつづけていて、結局何が何だか支離滅裂にシャッフル航法。

OTCの侵攻により、人類はもとより宇宙の法則さえ乱れ、もはや控え目に言っても「何が何だか分からない」、そんな世界、そんな設定で、「言葉とは?」「物語とは?」あるいは「時間とは?」「宇宙とは?」といった抽象的な問いかけを、世界を危機から救う問いかけとして問い続ける小説・・・自分なりに分かった範囲で内容をまとめると、こんな感じでしょうか。
それだけ見ると「哲学小説か?」と思いたくなりますが、どこをどう読んでもSF、しかもスペオペらしさ満載(宇宙戦艦という言葉すら平気で出てくるw)。 
分からないことを分からない言葉で描写したり、全く新しい発想を全く新しい用語で説明したり、という力技の連続で、読む方も集中力と体力が必要なのですが、そんな長編を書いてる円城塔はバケモノかよ? OTCかよ?(最大限の褒め言葉です)
そもそもこの小説に出てくる場面も、人物も、ほとんどが私たちの言ういわゆる「現実」ではない。
仮想空間というのも愚かしい、私たちには想像できない宇宙でのできごと、しかも一瞬ごとにその様相を変え続ける宇宙のできごとをしれっと小説に、普通に日本語にしようというその感覚が恐ろしい(褒め言葉です)
まあしかし、分かった範囲で強引に、ほんとに強引にまとめると、円城塔が今までにもこだわってきた、「小説を書く」という行為(「書き手と読み手とは」とか「物語るとは」とか「文字と言葉の関係」とか「思考とは」とか、多くの問いかけを含んでいる)を、宇宙の生成にからめて作った物語、だと思いました。

大枠はそんな所だとして、この小説の魅力はちょいちょい差し挟まれる、円城塔ならではの切れ味の鋭いスマートなギャグの数々!
終盤の、ベスターの「虎よ! 虎よ!」を思わせる活字の乱れる配置(ベスターに対する言及も作品中にあったので、明らかに意識してやっています)の中にもこんなのがw

る回る
回 よ
は宇宙


(「回る回るよ宇宙は回る」・・・「回る回るよ時代は回る」のパロとしてだけでも十分可笑しいww)
この宇宙では言葉が存在そのものでもあり、攻撃を受けて「朝戸」が「朝尸」と「一」に分解してしまったり、更に「朝」が「十日十月」に分解してしまったりします。
更には、そこいらにありふれている「死」が「尸」に「ヤドカリのように入り込んで」、「屍」になってしまったり、ともうメタなギャグさえいれてやりたい放題(笑)
「人間を兵器とした艦隊をコレクションする、なんて言葉が通用する時代がくるわけないだろ」
こんなギャグまでありましたww

また、主人公の朝戸がなんか実にカッコ良くて、「いいなあ、この人いいなあ」ってずっと思っていたら、この朝戸という男はもともと、そういう他人を強力に惹きつける魅力、すなわち「ラブストーリー生成能力」によって宇宙の秩序を守らんとする能力者なので、読者である私が「いいなあ」と思うのも当たり前なのですねw
相棒のアラクネの、人類に対して「下等生物」といい放ちながらもけっこう従順な態度もカワイイです。このアラクネからの毒舌に対し、朝戸の返答がまた鈍感というか鷹揚というか、「で、いまの何?」などのすっとぼけた会話なのが実に楽しい。

表紙に描かれる少女は「榎室南緒」で、これもまた重要人物の一人です。(逆さに立っているのは朝戸連、ただしどの朝戸連かは分からない)
作品全体を通して読むと、この二人の少年少女の、いかにも円城塔らしいボーイミーツガールの初恋物語にもなっていて、改めて、この作品は現在までのSF作家としての円城塔の集大成だなあ、と思いました。
私は例によって、何が書いてあるのかサッパリ分からないままに読み終えてしまいましたが、それでも「面白かった」と思い、また、あちこちに伏線らしきものがあったので、すぐにもう一度最初から読み直してみました。
再読することによって「そうだったのか!」と納得する部分も多かったのですが、やはり全然理解できませんでした(T.T)
おそらく、コンピュータの言語やソフトウェアに詳しい方だと、かなりの部分が理解できるのではないかと思います。

「道化師の蝶」あたりで、円城塔は文学の方向に行ってしまうのかなあ、と一抹の寂しさを感じてもいましたが、こんなにSFSFしたSFを書いてくださって本当に嬉しい限り。
円城塔は作家として、すでに世界の文学の最先端に位置しているのではないかとひそかに思っているのですが、まだまだ成長していく余地が一杯ある方だとも思っています。
リアルタイムでこうして新刊を追いかけられる自分は幸せ者です。
封切りになったばかりのアニメを映画館に見に行ってきましたが、・・・
200.jpg

一言でいうと、「違うだろ・・・」と。

普段、ブログを書くにあたって、大好きなもの、良かったもの、ぜひオススメしたいものばかりを取り上げるようにしています。個人的に悪口しか言えないようなものは記事にしないようにしているんです。
悪口ばっかりのブログなんて、読んでも嫌な気分になるだけだものね。
しかし、このアニメ版「屍者の帝国」に関しては、ちょっと否定的な感想を書いてしまいます。嫌な予感がする人は読まないでください。

アニメは10/2公開でしたがそれに合わせて、ここ数日、こんな辺境のブログに「屍者の帝国」の感想を探して訪問する方が多いので(小説版「屍者の帝国」の感想が、検索に引っかかっている模様)、早い時期に自分なりの感想をアップしておかなくてはいけないのではないかと思っていたのです。
映画版が小説とはまったく別の話になっているので、このブログの小説版の感想を読んでくださった人が「あれ? 映画にこんな話、あったけか?」と、混乱するのを防ぐ目的もありますが、何よりもまず、アニメだけを見て「『屍者の帝国』ってこんな話なんだー!」と勘違いする人を少しでも減らすのが自分の、円城ファンとしての責務だと思っております!

映画が原作と全く別物になること自体はよくあることなので、その点に目くじらを立てるつもりはないのですが、原作を愛するものとしては、別物になったらなったで、別物として完成された面白いものに仕上がっていて欲しいのです。
だけど個人的に、この映画は結局何がしたかったのかよくわかりませんでした。
原作のエピローグで、フライデーが今は亡きワトソンへの想いを切々と訴える文章がこの映画のキモになっており、全体のテーマがワトソンとフライデーの友情物語になっているのですが、そう思って見てもやはり、中途半端なのです。

この映画ではフライデーはもともとワトソンの親友であり、早世した友人を屍者としてよみがえらせたワトソンが、英国諜報機関に与えられた任務により、またフライデーの記憶と自我をよみがえらせる為に、ヴィクターの手記を求めて冒険の旅に出る話になっています。
(原作では、フライデーはワトソンに与えられた単なる自動筆記用のツールでしかありませんでした。それが、ワトソンと旅をつづけ苦難を共にして、ワトソンの言葉や行動が彼の中に蓄積されていったこと、また、原作にのみ登場する人間の意識を形作る菌株に(多分)感染したこと、最後にワトソンが自我を失うのを目の当たりにした衝撃、これらが重なってフライデーに自我が芽生えたと私は思っています)

この、ワトソンの動機がそもそもよくわからない・・・。
死者を屍者としてよみがえらせることと、死者の記憶や自我を呼び戻すこととは別の話なんじゃないだろうか?
それって、各自が生きているうちにデータ化しておけよ、って話なんじゃないだろうか?
ヴィクターの手記に書かれた何らかの秘密により、ザ・ワンは屍者でありながら生きているように行動し、喋ることができるという。
しかしザ・ワン(フィランケンシュタインの怪物のこと)は人間による創造物なので、もともと、生前の記憶というものがなく、どんなに生きているように見えても、フライデーの記憶や自我を呼び戻す参考にはならないのでは?
ヴィクターの手記に屍者についての、自分がまだ知らない秘密が書かれているかもしれない、という一縷の望みにすがってしまう気持ち、まあ分からないでもないけど、手記の内容についてもほとんど知らないままに旅に出て周囲を巻き込むのも迷惑な話で・・・。

そして映画を見終わっても、屍者の秘密、というか手記の内容がイマイチ分からない。
原作だと、「人間の意識は菌株によって作られた病状のようなもの」という、驚くべき大ネタが仕込まれているのですが、それも無い。何となく、手記を手に入れたものは世界中の死んだ屍者と生きた屍者を操る力を手にすることができる、らしい。
その力をめぐって、英国諜報員のM、そして最初の屍者であるザ・ワンが、ワトソン一行を利用し権力闘争を繰り広げる。ワトソンは自分の行動がきっかけで世界が破滅するのを防ぐべく、ラスボス(結局ラスボスは、かつて失った花嫁を再び手に入れようとした、ザ・ワン)と死闘を演じ、その野望を阻止する・・・。
こんな感じで、普通にアクション映画としてそれなりに完成度は高いのですが、よくあるパターンと言って言えなくもありません。
また、屍者が「あ~う~」状態で襲ってくるのはゾンビ映画っぽかったです。

で、その後、フライデーの自我を取り戻すことに成功したのか失敗したのかよくわからないワトソンはなんと、自分を生きたまま屍者化する!
この行動に何の意味があったのか・・・?
屍者同志で、フライデーと心を通わせることができるようになるのを期待したのか?
ここで画面が暗転し、エンドロールが始まった時は正直どうしようかと思いました。
が、エンドロールの途中から、原作とほぼ同じのフライデーの独白が始まります。

「ワトソン博士」
 ぼくのペンはそう記す。ぼくのペンがそう記しても、ワトソン博士はもうこの平原に姿を現さない。(中略)それでも彼は、まだこの世のどこかに存在している。この世だけで足りないならば、別の宇宙を含めたって構わない。少なくとも彼の霊素を構成した物理実体は、消える事を許されない。たとえそれが、ちりぢりになったとしたって。

(↑これは原作のほう。映画は少し違っていました)

ここまで来て、「そうか、この二人の生死を超えた友情みたいのを描きたかったのかなあ・・・」ってちょっと納得しかかったのですが、でも、映画の中では生前のフライデーは自分のことを「おれ」って言ってたし、ワトソンとは学友みたいな関係だったのに「ワトソン博士」って呼びかけるのもおかしくない?
原作のエピローグに感動して、その文章をそのまま使ったんだろうけど、そのへんが甘くない?
そもそも、映画の中では最後までフライデーって意識のない死体の屍者だったのに、どうして急にこんなに饒舌に喋りだしたんだろう?

エンドロールが終わると、屍者となったはずのワトソンが、探偵のホームスと共にロンドンの街を馬車で走りまわり、それを双眼鏡で見ているフライデーの姿が一瞬映るのですが、そのシーンも意味不明。
ワトソンは屍者にしては動きが生き生きしすぎているし、フライデーは完全に生者のように見えるし。いつ生き返ったんだろう?
私の集中力が足りなくて、何か重要な言葉やシーンを見落としていて、それでこんなに辻褄が合わなくなっているのだろうか・・・。だとしたら申し訳ないのですが。

あと、言いたくはないがキャラクター設定がキレイめすぎてどうにもBLくさい。
だってフライデーがこの人↓なんですよ~。
teikoku_003_cs1w1_400x.jpg

このようなウツクシイ死者がうつろな瞳でドロドロ血を流したりするので、「耽美系グロ」が苦手な私は、ストーリー以前にもう絵で無理っぽかったのです。
ワトソン博士が妙にのっぺりツルンとした顔立ちなのも、他のキャラとの対比で、違う世界観でデザインされた顔のように不自然だったのも最後まで違和感がありました。特に、日本のシーンで出てくる山沢静吾の眉毛の太さも異常で、同じ画面上に並んでいい人物とは思えない(笑)
紅一点のハダリーは設定上、いくらキレイでも色っぽくても問題ないと思います。

画面全体は、19世紀ロンドンが舞台のスチームパンクど真ん中の世界観で、それなりに美しかったです。途中の旅の風景などもいい感じだったし、開国間もない日本に立ち寄る場面も、日本の風景が浮世絵みたいにカラフルに描かれていて面白いです。
ただ、私はCG嫌いなので、ちょっと安易にCGを使いすぎているかなという気もしました。

・・・以上のように、全体として私の評価は低いのですが、映画館からの帰り道、大学生くらいの男の子3人組が、
「でも、面白かったよね」
「うん。これは次作にも期待ですな」
という会話をしていたのが可笑しかった。「期待ですな」っていう言い方がいかにもオタクっぽくてね(笑)
次作、というのはプロジェクト・イトー第二弾のことですね(「ハーモニー」と「虐殺機関」のどちらが先なのかわからないけど)。
伊藤計劃のファンなんだろうなあ・・・と微笑ましく思った次第です。

以上、長々と文句ばかりになってしまいましたが、いち円城ファンの感想として、何かの参考になれば幸いです。

あと、BLネタということで言えば、一番のオススメカプはニコラス×バーナビーだと思うの・・・

 BLOG TOP  »  NEXT PAGE