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イザク

Author:イザク
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昔のSF。宇宙とかロボットとかそういうSFっぽいもの。
本一般。映画一般。特撮ヒーロー。仏像。友情モノ。
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518-9zClTnL__SX344_BO1,204,203,200_「プロローグ」円城塔・著 文芸春秋社・刊
2015年秋、円城、無双。

「シャッフル航法」
「エピローグ」
「雨月物語 現代語訳 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集11)」
そしてこの「プロローグ」

この秋、円城塔が次々と新刊を発表しています。しかもその内容が、攻めてるっていうか、常に挑戦的というか実験的というか・・・。
一言で言うと「怖いもの無し」、無双状態です。
この感じ、私が若い頃の筒井康隆、「虚構船団」とかを書いてた頃の筒井康隆を思い出すなあ・・・。当たるを幸い、なぎ倒しちゃってるよなあ・・・。

「プロローグ」は作家である「わたし」が、作品の背景となる地「カナン(川南または河南)」と、登場人物となる13の部族を最初に決めて、その登場人物たちの設定、行動を書き継いでいくのと同時に、物語を生成していくプログラムや日本語の表記のことを考察する。13人の登場人物たちは自分の置かれている設定を意識しつつ、物語のはじまりの謎に迫っていく。

大まかに作品を説明すると、こんな感じなのですが、この作品から受ける印象はやはり「私小説」というか、「円城塔のひとりごと」。
円城塔が文章を書くとき、こんなことを考えてるのか、なるほどな、ワッケわからんわ、という感じです。
先日、「シャッフル航法」出版記念サイン会に行ったとき、円城さんが「小説を自動生成するプログラム」の話や、「なぜまだ紙の本があるのか。すべてデジタルデータにすればいいのに」とか、「自分が小説で使う形容詞をプログラムでカウントしてみたら・・・」とか、物語ること、言葉、についてのいかにも理系な発言の数々に驚いたものでした。
しかしあの時の発言の数々は、実はこの「プロローグ」で「わたし」がつぶやいていた言葉の数々と同じだったのね。
そのあたりが、私がこの「プロローグ」対して感じる私小説というか楽屋落ち小説っぽい感じ、やりたい事やっちゃってる感じ、無双っぽい感じのもとになっています。
作品中に作者が出てきて創作裏話を語りだす、こういう事はやはり全盛期の筒井康隆がよくやってた記憶があります(「虚構船団」も第二部が確かそんなパートだった)。

しかし、この「プロローグ」に出てくる13の部族の苗字、というのがなんと、朝戸(アサド)であったり榎室(エムロ)であったり蔵人(クラビト)であったり英多(アガタ)であったりするのです。そう、先月早川書房より発行された「エピローグ」の登場人物たちの名前。
しかも英多は「船長」であったり、榎室は「イザナミ・システム」の開発者であったり、設定までも共通しています。
と、いうことは・・・?
「プロローグ」で名前とともに生み出された部族たちが、架空の地で繁栄し、やがてOTCの侵攻を受けて現実から撤退していく姿を描いたのが「エピローグ」ということなのか?
「プロローグ」と「エピローグ」があるなら、本編もやがて何らかの形で書かれうるものなのか?
作中で語られる、古い地層から出てくる巨人の骨の謎や、駅の地下に広がる空間の謎、などなど、この先に続くと思われる話もありますしね?

内容は私小説っぽいひとりごとの他に、登場人物たちの細かいエピソードの積み重ねですが、中でも妙に日本の遺跡や伝承に詳しい「ペドロ」の薀蓄が面白い。円城塔が理系ひとすじの人ではなく、民俗学的なものも大好きなのがよく分かります。
「日本語」に対する探究心、「日本史」についての興味。
ああ本当に、円城塔はこの先、どんな方向へ向かっていくのだろう・・・。

そしてこの小説が私小説であるならば、「わたし」の周囲に起こることは円城塔の周囲に起こっていることだということになります。
作中で「わたし」の家に赤ちゃんが生まれ、「わたし」はその子の写真をとるためにそれまで興味のなかったカメラを買いあさり、やたらカメラに詳しくなってしまうという、微笑ましいエピソードがあるのですが・・・?
これって、もしかして・・・おめでとうございます?
(ファンだと言っているわりに、円城塔のことを良く知らない)

何はともあれ、もはやひとりごとさえもが文学になる、無双な状態の作家の最新作、ケチくさい日常から離れて頭を柔らかくしたい人にはうってつけです。
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「エピローグ」は、「屍者の帝国」以来、3年ぶりとなる円城塔の新刊長編小説。
円城塔の作家としての、SF書きとしての充実ぶり、実力のほどを遺憾なく知らしめる傑作だと思います。
早川書房の「SFマガジン」に連載されていたものをまとめた本で、SFくささが満載です!
何しろ、主人公の朝戸連は、人類対OTC(オーバー・チューリング・クリエイチャ、つまり、人工知能が進化しすぎて人類には理解不能になったもの)との戦いに参加しており、その相棒はアラクネという名の超高性能ロボット。そして朝戸は「能力者」というオイシイ設定。この二人の掛け合いが、昔なつかしいスペースオペラの香りがして実に楽しい。
そしてもう一人の主人公、クラビトは多元宇宙で起きる連続殺人事件らしきものを調査する、多数の宇宙を股にかけた宇宙刑事でしかも、実はインベーダーである奥さんとは離婚訴訟中(笑)
古典的というかベタというか、SF好きにはたまらない設定です。
その分、挑戦的というか真っ向勝負だなと思います。
出世作「Self-Reference ENGINE」もSFらしい作品で、話の内容も「エピローグ」に似ているのですが、「Self-Reference ENGINE」が変化球というか、群盲象を評すようなエピソードの積み重ねであったのに対し、「エピローグ」はど真ん中直球です。
しかも、この表紙絵を見ればわかる通り、少年少女のラノベ的なシュチュエーションを多用した初恋物語(実は円城塔の得意技でもある)という側面もあります。側面もある、っていうか実はそれがメインストーリーだったり(ネタばれ発言w)
そして、こうして内容を簡単に紹介すると、実に面白そうで、事実、とても面白かったのですが、何というか、私は多分この面白さの半分も理解することはできないと思うの・・・(T.T)

何しろ円城塔作品なので、難解なのは覚悟の上なのですが、この作品に関しては「難解」というよりもチェスの名勝負を見るような、「何か凄いことが目の前で進んでいる気配は感じるんだけど、全然ついていけません」感がありました。チェスの駒の進め方くらいは私も知っているので、読んでいて、ところどころで「分かった!」ような気になるのです。でも、次のページでそれを上書きするような新しい解釈や新事実が出てきて、というか、この世界での宇宙の法則が一瞬ごとに改変されつづけていて、結局何が何だか支離滅裂にシャッフル航法。

OTCの侵攻により、人類はもとより宇宙の法則さえ乱れ、もはや控え目に言っても「何が何だか分からない」、そんな世界、そんな設定で、「言葉とは?」「物語とは?」あるいは「時間とは?」「宇宙とは?」といった抽象的な問いかけを、世界を危機から救う問いかけとして問い続ける小説・・・自分なりに分かった範囲で内容をまとめると、こんな感じでしょうか。
それだけ見ると「哲学小説か?」と思いたくなりますが、どこをどう読んでもSF、しかもスペオペらしさ満載(宇宙戦艦という言葉すら平気で出てくるw)。 
分からないことを分からない言葉で描写したり、全く新しい発想を全く新しい用語で説明したり、という力技の連続で、読む方も集中力と体力が必要なのですが、そんな長編を書いてる円城塔はバケモノかよ? OTCかよ?(最大限の褒め言葉です)
そもそもこの小説に出てくる場面も、人物も、ほとんどが私たちの言ういわゆる「現実」ではない。
仮想空間というのも愚かしい、私たちには想像できない宇宙でのできごと、しかも一瞬ごとにその様相を変え続ける宇宙のできごとをしれっと小説に、普通に日本語にしようというその感覚が恐ろしい(褒め言葉です)
まあしかし、分かった範囲で強引に、ほんとに強引にまとめると、円城塔が今までにもこだわってきた、「小説を書く」という行為(「書き手と読み手とは」とか「物語るとは」とか「文字と言葉の関係」とか「思考とは」とか、多くの問いかけを含んでいる)を、宇宙の生成にからめて作った物語、だと思いました。

大枠はそんな所だとして、この小説の魅力はちょいちょい差し挟まれる、円城塔ならではの切れ味の鋭いスマートなギャグの数々!
終盤の、ベスターの「虎よ! 虎よ!」を思わせる活字の乱れる配置(ベスターに対する言及も作品中にあったので、明らかに意識してやっています)の中にもこんなのがw

る回る
回 よ
は宇宙


(「回る回るよ宇宙は回る」・・・「回る回るよ時代は回る」のパロとしてだけでも十分可笑しいww)
この宇宙では言葉が存在そのものでもあり、攻撃を受けて「朝戸」が「朝尸」と「一」に分解してしまったり、更に「朝」が「十日十月」に分解してしまったりします。
更には、そこいらにありふれている「死」が「尸」に「ヤドカリのように入り込んで」、「屍」になってしまったり、ともうメタなギャグさえいれてやりたい放題(笑)
「人間を兵器とした艦隊をコレクションする、なんて言葉が通用する時代がくるわけないだろ」
こんなギャグまでありましたww

また、主人公の朝戸がなんか実にカッコ良くて、「いいなあ、この人いいなあ」ってずっと思っていたら、この朝戸という男はもともと、そういう他人を強力に惹きつける魅力、すなわち「ラブストーリー生成能力」によって宇宙の秩序を守らんとする能力者なので、読者である私が「いいなあ」と思うのも当たり前なのですねw
相棒のアラクネの、人類に対して「下等生物」といい放ちながらもけっこう従順な態度もカワイイです。このアラクネからの毒舌に対し、朝戸の返答がまた鈍感というか鷹揚というか、「で、いまの何?」などのすっとぼけた会話なのが実に楽しい。

表紙に描かれる少女は「榎室南緒」で、これもまた重要人物の一人です。(逆さに立っているのは朝戸連、ただしどの朝戸連かは分からない)
作品全体を通して読むと、この二人の少年少女の、いかにも円城塔らしいボーイミーツガールの初恋物語にもなっていて、改めて、この作品は現在までのSF作家としての円城塔の集大成だなあ、と思いました。
私は例によって、何が書いてあるのかサッパリ分からないままに読み終えてしまいましたが、それでも「面白かった」と思い、また、あちこちに伏線らしきものがあったので、すぐにもう一度最初から読み直してみました。
再読することによって「そうだったのか!」と納得する部分も多かったのですが、やはり全然理解できませんでした(T.T)
おそらく、コンピュータの言語やソフトウェアに詳しい方だと、かなりの部分が理解できるのではないかと思います。

「道化師の蝶」あたりで、円城塔は文学の方向に行ってしまうのかなあ、と一抹の寂しさを感じてもいましたが、こんなにSFSFしたSFを書いてくださって本当に嬉しい限り。
円城塔は作家として、すでに世界の文学の最先端に位置しているのではないかとひそかに思っているのですが、まだまだ成長していく余地が一杯ある方だとも思っています。
リアルタイムでこうして新刊を追いかけられる自分は幸せ者です。
封切りになったばかりのアニメを映画館に見に行ってきましたが、・・・
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一言でいうと、「違うだろ・・・」と。

普段、ブログを書くにあたって、大好きなもの、良かったもの、ぜひオススメしたいものばかりを取り上げるようにしています。個人的に悪口しか言えないようなものは記事にしないようにしているんです。
悪口ばっかりのブログなんて、読んでも嫌な気分になるだけだものね。
しかし、このアニメ版「屍者の帝国」に関しては、ちょっと否定的な感想を書いてしまいます。嫌な予感がする人は読まないでください。

アニメは10/2公開でしたがそれに合わせて、ここ数日、こんな辺境のブログに「屍者の帝国」の感想を探して訪問する方が多いので(小説版「屍者の帝国」の感想が、検索に引っかかっている模様)、早い時期に自分なりの感想をアップしておかなくてはいけないのではないかと思っていたのです。
映画版が小説とはまったく別の話になっているので、このブログの小説版の感想を読んでくださった人が「あれ? 映画にこんな話、あったけか?」と、混乱するのを防ぐ目的もありますが、何よりもまず、アニメだけを見て「『屍者の帝国』ってこんな話なんだー!」と勘違いする人を少しでも減らすのが自分の、円城ファンとしての責務だと思っております!

映画が原作と全く別物になること自体はよくあることなので、その点に目くじらを立てるつもりはないのですが、原作を愛するものとしては、別物になったらなったで、別物として完成された面白いものに仕上がっていて欲しいのです。
だけど個人的に、この映画は結局何がしたかったのかよくわかりませんでした。
原作のエピローグで、フライデーが今は亡きワトソンへの想いを切々と訴える文章がこの映画のキモになっており、全体のテーマがワトソンとフライデーの友情物語になっているのですが、そう思って見てもやはり、中途半端なのです。

この映画ではフライデーはもともとワトソンの親友であり、早世した友人を屍者としてよみがえらせたワトソンが、英国諜報機関に与えられた任務により、またフライデーの記憶と自我をよみがえらせる為に、ヴィクターの手記を求めて冒険の旅に出る話になっています。
(原作では、フライデーはワトソンに与えられた単なる自動筆記用のツールでしかありませんでした。それが、ワトソンと旅をつづけ苦難を共にして、ワトソンの言葉や行動が彼の中に蓄積されていったこと、また、原作にのみ登場する人間の意識を形作る菌株に(多分)感染したこと、最後にワトソンが自我を失うのを目の当たりにした衝撃、これらが重なってフライデーに自我が芽生えたと私は思っています)

この、ワトソンの動機がそもそもよくわからない・・・。
死者を屍者としてよみがえらせることと、死者の記憶や自我を呼び戻すこととは別の話なんじゃないだろうか?
それって、各自が生きているうちにデータ化しておけよ、って話なんじゃないだろうか?
ヴィクターの手記に書かれた何らかの秘密により、ザ・ワンは屍者でありながら生きているように行動し、喋ることができるという。
しかしザ・ワン(フィランケンシュタインの怪物のこと)は人間による創造物なので、もともと、生前の記憶というものがなく、どんなに生きているように見えても、フライデーの記憶や自我を呼び戻す参考にはならないのでは?
ヴィクターの手記に屍者についての、自分がまだ知らない秘密が書かれているかもしれない、という一縷の望みにすがってしまう気持ち、まあ分からないでもないけど、手記の内容についてもほとんど知らないままに旅に出て周囲を巻き込むのも迷惑な話で・・・。

そして映画を見終わっても、屍者の秘密、というか手記の内容がイマイチ分からない。
原作だと、「人間の意識は菌株によって作られた病状のようなもの」という、驚くべき大ネタが仕込まれているのですが、それも無い。何となく、手記を手に入れたものは世界中の死んだ屍者と生きた屍者を操る力を手にすることができる、らしい。
その力をめぐって、英国諜報員のM、そして最初の屍者であるザ・ワンが、ワトソン一行を利用し権力闘争を繰り広げる。ワトソンは自分の行動がきっかけで世界が破滅するのを防ぐべく、ラスボス(結局ラスボスは、かつて失った花嫁を再び手に入れようとした、ザ・ワン)と死闘を演じ、その野望を阻止する・・・。
こんな感じで、普通にアクション映画としてそれなりに完成度は高いのですが、よくあるパターンと言って言えなくもありません。
また、屍者が「あ~う~」状態で襲ってくるのはゾンビ映画っぽかったです。

で、その後、フライデーの自我を取り戻すことに成功したのか失敗したのかよくわからないワトソンはなんと、自分を生きたまま屍者化する!
この行動に何の意味があったのか・・・?
屍者同志で、フライデーと心を通わせることができるようになるのを期待したのか?
ここで画面が暗転し、エンドロールが始まった時は正直どうしようかと思いました。
が、エンドロールの途中から、原作とほぼ同じのフライデーの独白が始まります。

「ワトソン博士」
 ぼくのペンはそう記す。ぼくのペンがそう記しても、ワトソン博士はもうこの平原に姿を現さない。(中略)それでも彼は、まだこの世のどこかに存在している。この世だけで足りないならば、別の宇宙を含めたって構わない。少なくとも彼の霊素を構成した物理実体は、消える事を許されない。たとえそれが、ちりぢりになったとしたって。

(↑これは原作のほう。映画は少し違っていました)

ここまで来て、「そうか、この二人の生死を超えた友情みたいのを描きたかったのかなあ・・・」ってちょっと納得しかかったのですが、でも、映画の中では生前のフライデーは自分のことを「おれ」って言ってたし、ワトソンとは学友みたいな関係だったのに「ワトソン博士」って呼びかけるのもおかしくない?
原作のエピローグに感動して、その文章をそのまま使ったんだろうけど、そのへんが甘くない?
そもそも、映画の中では最後までフライデーって意識のない死体の屍者だったのに、どうして急にこんなに饒舌に喋りだしたんだろう?

エンドロールが終わると、屍者となったはずのワトソンが、探偵のホームスと共にロンドンの街を馬車で走りまわり、それを双眼鏡で見ているフライデーの姿が一瞬映るのですが、そのシーンも意味不明。
ワトソンは屍者にしては動きが生き生きしすぎているし、フライデーは完全に生者のように見えるし。いつ生き返ったんだろう?
私の集中力が足りなくて、何か重要な言葉やシーンを見落としていて、それでこんなに辻褄が合わなくなっているのだろうか・・・。だとしたら申し訳ないのですが。

あと、言いたくはないがキャラクター設定がキレイめすぎてどうにもBLくさい。
だってフライデーがこの人↓なんですよ~。
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このようなウツクシイ死者がうつろな瞳でドロドロ血を流したりするので、「耽美系グロ」が苦手な私は、ストーリー以前にもう絵で無理っぽかったのです。
ワトソン博士が妙にのっぺりツルンとした顔立ちなのも、他のキャラとの対比で、違う世界観でデザインされた顔のように不自然だったのも最後まで違和感がありました。特に、日本のシーンで出てくる山沢静吾の眉毛の太さも異常で、同じ画面上に並んでいい人物とは思えない(笑)
紅一点のハダリーは設定上、いくらキレイでも色っぽくても問題ないと思います。

画面全体は、19世紀ロンドンが舞台のスチームパンクど真ん中の世界観で、それなりに美しかったです。途中の旅の風景などもいい感じだったし、開国間もない日本に立ち寄る場面も、日本の風景が浮世絵みたいにカラフルに描かれていて面白いです。
ただ、私はCG嫌いなので、ちょっと安易にCGを使いすぎているかなという気もしました。

・・・以上のように、全体として私の評価は低いのですが、映画館からの帰り道、大学生くらいの男の子3人組が、
「でも、面白かったよね」
「うん。これは次作にも期待ですな」
という会話をしていたのが可笑しかった。「期待ですな」っていう言い方がいかにもオタクっぽくてね(笑)
次作、というのはプロジェクト・イトー第二弾のことですね(「ハーモニー」と「虐殺機関」のどちらが先なのかわからないけど)。
伊藤計劃のファンなんだろうなあ・・・と微笑ましく思った次第です。

以上、長々と文句ばかりになってしまいましたが、いち円城ファンの感想として、何かの参考になれば幸いです。

あと、BLネタということで言えば、一番のオススメカプはニコラス×バーナビーだと思うの・・・

遅くなりましたが、前回読み切れなかった分の感想です。
全体として、前半よりも後半のほうが難解というか円城チックでした(笑)

「つじつま」
出産していない息子が体内で成長して・・・という、ワンアイデアのショートストーリー。
円城さんらしい上品なユーモアを感じるものの、正直、どうしてこれを円城塔が書く必要があるのか? という気がする。
何がしたいのかわからない、というか・・・。
普通に短編としては面白いのですが。

「犀が通る」
とある喫茶店に、毎日ランチを食べにくる男と二人の店員。
3人3様の内面、心模様。更に、その喫茶店の壁に貼られている星図、そして喫茶店とは何の関係もない想像上の犀との会話。
主観と視点がどんどん入れ替わり、平凡な日常の裏でお互いがお互いを全く理解していないのに、平凡な日常が淡々と成り立っていく怖さ、みたいなものが描かれていく。
(全盛期の筒井康隆がこういう短編を書いていたような気がするけど作品名が思い出せない)
ランチを食べにくる男、というのが、悪い男ではないけれどもどことなく狂気を宿した人物で、その男の目を通して見た、道端で父親にくすぐられて笑っている男の子の描写が凄まじく、こんなふうに物事が見えてしまう人物もさることながら、それを平然と文章にしていく円城塔にも改めて畏敬の念を抱いてしまいます。

「Beaver Weaver」
円城塔の得意のパターンのSF短編。
普通のビーバーが樹木を噛み砕くように、形而上ビーバーが公理を噛み砕いた結果、現出した支離滅裂な世界で、銀河社会主義国家群との宇宙戦争に巻き込まれてもいる「僕」が、小学校の頃、理科の実験でビーカーの水に石鹸を溶かす実験をしたことを思い出す話。
・・・まあようするに、まったく分かりません(T.T)
しかしまあ、円城さんのこの手の話によくある、正体不明だけど妙に魅力的な女の子が出てきて、初恋とか思い出とかの香りが漂うロマンチックな話(多分)。
あと、執事口調で話す「ライブラリ」が素敵ですw

「(Atlas)³」
これまた円城塔らしいパターンのSF。
カメラや観測衛星など、視点が増えすぎた結果、現実の方に齟齬が出てきてしまい、地図製作者の「僕」は殺され続けている、という話。
・・・ハイ、分かりませんね、まったく分かりません!
しかしこの短編では、「僕」を助けてくれる友人の「稲生」という男がとても良くて、二人の会話が青春ハードボイルドなのが読みどころです。特に、チョコレート風味のワインをめぐる会話が好き。何だかんだ言って、クサい二人の友情が好き。
途中で出てくるお色気お姉さんも好きだし、無駄にカッコいい語り口も好き。
ほんと、理系のカタブツなのかと思いきや、どうしてこんな洒落た会話とか書けるんだろうなあ。

「リスを実装する」
モニターの中で活動しつづけるプログラムされたリスの「マーク」。
そのマークを作った男(野実)には、かつて妻と息子がいた。そして、今は二人ともいない。
野実の内面に沿った語りが淡々と進んでいくのですが、だんだん、野実という男に感情がないのが怖くなってきます。もしかして、プログラマって徐々に感情をうしなってこんなふうになっていくものなのか?
マークと、家族と、野実の中ではすでに同列になってしまっていて、しかも野実自身も、モニタの中のマークのように決まった行動の繰り返しで一日を終えていくラストの数行は恐ろしかったです。

「Printable」
ハイ、またもや円城塔の得意の<創作/翻訳/コピー>、をめぐる誰かの記述、というパターンの短編です。
全然分かりません(T.T)
ただまあ、<他人の書いた小説/書くかもしれない小説/書かれたであろう小説>を翻訳あるいは創作していく、という行為はやはりどうしても「屍者の帝国」を書いた円城さん自身を想起させ、私のようなものはついつい、「まだこんな所にこだわっていたのかチクショウ泣かせやがって」という、歪んだ感想を抱いてしまうのでした。
あと、「コピー」というテーマが突き詰められていて、3次元コピー機で人間を印刷してしまうというアイデアが凄かったです。
人造人間って、こんな形で出来るのか・・・。コピーの子供が親をコピーするとか、まったく新しい未来図だと思いました。

以上です。
やはり今回の本では表題作の「シャッフル航法」が何といっても斬新でインパクトがありました。
「Beaver Weaver」や「(Atlas)³」を読んでいる時に、何度も「シャッフル航法、支離滅裂に」というフレーズが頭をよぎりました(笑)
もしかして円城塔のSFって「支離滅裂」の一言で言い表せるのかもしれない(笑)
あとは「内在天文学」の甘酸っぱさ、「(Atlas)³」の友情、「犀が通る」の狂気スレスレのシュールっぽさ、などなどが好きです。
まあ要するに、今回も分かんなかったけど面白かったです!

円城塔『シャッフル航法』 出版記念トーク&サイン会~円城作品とその文体をめぐって〜 出演:円城塔さんゲスト:山本貴光さん
渋谷のジュンク堂書店で行われたイベントに行ってきました~!

初めて見る生円城にドキドキワクワク!
何となく想像では、貧相な体つきで血色が悪いイメージ(ヒドイ)だったのですが、思ったよりもガタイも良く朗らかで良くしゃべり良く冗談をいい、人当りも良くさりげなく気を遣う、とっても素敵な方でした~!
客層は、男性女性ほぼ半々くらい。若い人が多い印象を受けましたが、作家さんのトーク&サイン会に参加するのは初めてなので、比較的にどうなのかはわかりません。

「シャッフル航法」出版記念イベントという事もあり、自らの創作方法を語る場面が多かったのですが、可笑しいのが、
「僕は語彙が少なくて・・・ちょっと調べてみたら、『青い』『赤い』とか『速い』とかしか使ってない(笑)」
「語彙のカテゴリーの中を駄洒落や語呂でつないでいるだけなのでは(笑)」
「面白い(小説の)構造が人間の側に合わせて壊れるとき、愛とか感情とか差し込みやすい(笑)」
などなどの発言。
円城作品を創作できるプログラミング、という話は何度も出てきました。
「『登場人物その1』が『動作その1』をする小説」とか(笑)
半分冗談だとは思いますが、真顔で語っているので理系ではない私には判断できません。
ただ、「シャッフル航法」の創作話の時に、ただシャッフルしただけだと読めないものになってしまうので、
「ちゃんとした文章にはしました。僕の中の詩人が許さなかった(笑)」
とおっしゃっていましたので、やはり基本は人間が作る小説がまずあって、それをプログラムが手助けしてくれるイメージなのだと思います。
「Φ」という短編(段落ことに1文字ずつ文字数が減っていく小説)を書くときは、最初にいくつもの短文を書いて、それをコンピュータに文字数を数えさせて並べ替えさせ、「〇〇文字の文章が無いですよ」などの表示を出させて、そこを埋めていくようにして完成させたとおっしゃていました。なるほどねー!

あと、現在手掛けていらっしゃる「雨月物語」の現代語訳(河出書房新社 池澤夏樹個人編集版)のこともいろいろお話ししてくださいましたが、この仕事について「選択の余地は無かった」とおっしゃっていたのが可笑しかった。
池澤夏樹さんという方の事は良く知らないのですが、「雨月物語は円城塔だな!」と、ビビッと来るものがあったんでしょうね(笑)
言われてみると、なんとなく似つかわしい気もします。
「『菊花の約』なんて、もともと中国の古典なのに、上田秋成がやまとことばにしたせいで、なんとなくなよなよしたBLみたいな感じになっている(笑)」
などとおっしゃってみたり、何か、日本の「やまとことば」というもの自体に興味を惹かれつつある様子でした。
「なぜ五段活用は五十音のあいうえおの形に活用されるのか。そんなことを、飛鳥地方などを旅しながら考えるとちょっとおかしくなってくる」
というような発言も。
「物語るという行為」や「言葉そのもの」を題材にすることの多い円城さんなので、この傾向でしばらくたつと、またとんでもない小説が誕生するのではないかとわくわくします。

司会と質問をしていらした山本貴光さんのツッコミがまた面白くて、掛け合い漫才みたいな楽しさもありました。
ただ、やはり何と言っても円城塔のトーク会、正直、何をしゃべっているのかまったくわからず、専門用語で何か冗談っぽいことを言って、何がおかしいのか自分にはわからないけど会場の人たちがどっと笑う、という場面も多々ありました(T.T)

そして最後にサイン会となり、私ももちろん買ったばかりの「シャッフル航法」にサインをしていただきました。
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この、左側の日付の上にある図が何だか分からなかったため、これは何ですかと尋ねたところ、
「これは塔の絵で、矢印はシャッフルしているところです」
という答えが返ってきて感動~! なんて可愛いんだ(笑)

更に、サイン会の時に私の前の女性が、
「円城先生の作品はエモーショナルな感じがします」
と話しかけていて、それに円城さんが、
「エモいってよく言われます」
と答えているのを聞いて非常に共感を覚え、その女性に帰りのエレベーターの中で思い切って「私も円城塔はすごくエモいと思っています」と話しかけてみました。
何となく、会場全体の雰囲気が知的かつ理系っぽい雰囲気で、「円城さんの本って泣けますよね~」とか言いだせる雰囲気ではなかったのですが、私は前から円城作品の最大の魅力は文章の美しさと並んで、見え隠れする熱いエモーションだと思っていたので、同じ考えの人がいて嬉しかったのです。
そうしたら彼女もやはり、ミーハー的(?)に円城作品を愛していらっしゃる方で、そこから新宿駅まで女子トークで盛り上がりました。
「ギリギリですれ違っていく感じが切ないですよねー。でも最後『まあしょうがない。僕は僕で行くしかない』みたいな諦める感じとか」
「わかるー!」
「『松ノ枝ノ記』とかそれがすごくてー」
「あれ良い! すごい泣けました!」
「『Self-Reference ENGINE』は文庫で読んだら白い靴下の話が入っていて」
「あれも好き~。内側が濡れていた、とか(笑) でも最後白い靴下は男らしくてカッコイイですよねw」
みたいな感じで延々と続きました。やっぱり、私みたいな読み方をしている女子も他にいるんだと思い嬉しかったです。

そんなこんなで、イベントを楽しく満喫して帰ってきたのでした。
とりあえず、今は「円城訳:雨月物語」が待ち遠しいです。

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「屍者の帝国」より3年、待ちに待った円城塔の新刊がキター!

「シャッフル航法」は短編集です。
本当は全部読んでから感想をアップしたかったのですが、1篇ずつ大事にちびちびと読んでいるので、とりあえず読み終わった前半だけ感想を書いておきます。

「内在天文学」
私にはよく分からないのですが、ほら、最近の宇宙論とか物理学とかって、「観察者に観測されることによって宇宙は今の姿で存在する」みたいな学説があるじゃないですか。
これは、そんな観測者によってありようを変えていく宇宙の話。
現在の夜空が、人間によって見られているからこそ今のような夜空になっているのだとしたら、鯨とかイルカとか、南極オキアミとか、他の生物によって観測される宇宙はグロテスクに変容しているはず・・・というアイデアがまずすごいです。SF的でもあり思弁的でもある。イーガンの「宇宙消失」などに通じるSFホラ話のクールな馬鹿馬鹿しさ。
しかしこの短編の良さはそんなアイデアの突飛さよりも、いつも満月で瞳があってまばたきまでする月とか、月食の日にそこを覆っていく土星の影とか、突然一列に並んでしまうオリオン座とか、視覚的なインパクトの強い描写の数々。そして古き良き、と言いたくなるようなアメリカの片田舎の、偏屈者の爺さんと変人の若者との、何かいい感じの交流。
更には、出世作「Self-Reference ENGINE」にも通じる、爽やかなボーイ・ミーツ・ガールの初恋物語にもなっているところ。
円城作品にしては特に難解でもなく読みやすく、いろんなレベルで満足できる、円城塔の魅力が堪能できるお得な短編。

「イグノラムス・イグノラビムス」
「ワープ鴨の宇宙クラゲ包み火星樹の葉添え異星人ソース」という宇宙の食通をうならせる料理。
まず、この料理に関する逸話の数々がもう可笑しくて爆笑ものなのです。特に笑ったのが、
【ワープ鴨を目にするや立ち上がり、「俺の食い様を目に灼きつけろ」と絶叫して傍らのナイフで自らの頸動脈を掻っ捌き、噴き出した血をソースにワープ鴨を賞味しながら絶命した人物】
のくだり。円城塔のギャグセンス、好きだなー。
この、ワープ鴨を世に広めた人物というのが、かつてある異星人のボディにインストール(?)されていたことがあって、その異星人の物の考え方を身につけている。異星人の思考方法で思考するというのは、テッド・チャンの「あなたの人生の物語」にも似てるかも。
ネタバレになるのであまり言えませんが、最後のほうは「自分の意志とは」「自分の行動とは」みたいなテーマになっていて、実に伊藤計劃っぽいなあ、と思いました。

「シャッフル航法」
表題作ですが、発表されたのが「現代詩手帳 2015年5月号」なのです。
やるなあ現代詩手帳。この号には「伝法の徒」の酉島伝法も詩をのせているらしい。すごい事になっていそう(笑)
内容は、やはり小説というより詩に近いですかね。
【ある朝に、その夜に、ハートの国で、(中略)此処がどこかも、今が何時かも、わからなくなり、支離滅裂に。】
・・・というような言葉が、トランプのカードのように13×4個、次々にシャッフルされていきます。
(必ず最初が「ある朝に」で最後が「支離滅裂に。」なのも、実際トランプカードを両手でシャッフルするときのことを考えると、ああなるほどという感じ。並び変わりの規則性も、ちゃんと調べたら面白そう)
語呂が良くて、破滅的な恋の香りもあって、「ガンガンガンガン、支離滅裂に」とか、口癖になりそう。
でも一応、SFっぽいというか、この詩全体が「シャッフル航法の初期に起きた痛ましい事故の記録」ということになっているのです。
いや確かに痛ましいわ(笑) ボコボコボコボコ、バリバリバリバリ、支離滅裂に(笑)

「Φ」
徐々に収縮していく宇宙を、1文字ずつ文字が減っていく段落で表現した作品。
・・・というと意味が分かりにくいかと思いますが、ようするに、だんだんと「わたし」の使える言葉が短くなっていって、ついには消滅してしまうのです。
かつて筒井康隆が「残像に口紅を」という小説で、50音の中から徐々に使える文字が一文字ずつ減っていく小説を書いたのを思い出しました。「残像に口紅を」では、最後のほうになると、もう言葉をどんどん奪われた語リ手が、乏しい語彙を使って自分の幼年期の思い出を語りだすのが切なかったのですが、この「Φ」もそれにも似ています。
終盤、文字数の制限によって思考の幅をどんどん制限され、それでも必死に言葉を残していこうとする語り手の独白が、なんだか、死ぬ直前の人の意識ってこんな感じなのかなあ・・・と思わさせられました。


・・・今回は以上です。
今までのところ、テーマ的にはややSF寄りですが理系感が薄く、読みやすいです。
表題作「シャッフル航法」をはじめ、言葉使いのセンス、文章力が相変わらず素晴らしくて、読んでいるだけで気持ちがいいです。
(他の作品を想起した、という感想が多いのですが、円城作品は他人にイメージを伝えにくいので、あえて有名作品の名を借りてもいます。作品のアイデアが、先行する作品に似ているということではありません、念のため)

ところで!
この「シャッフル航法」の出版記念トーク&サイン会が明日(9/2)渋谷であり、私、行く予定なのですよー!
ああ~、生円城を見られるなんてシアワセ~!
トークの様子は後日、ここにアップいたしますので円城ファンの方は楽しみにしていてくださいね!

SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
(2014/06/06)
チャールズ・ユウ

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久々の円城塔の本は新刊ではなく、アメリカの作家チャールズ・ユウの作品の翻訳本。
って事になっていますが・・・。

・・・この本、読んだ人10人中9人までが「チャールズ・ユウって円城塔が作った架空の作家?」って思うんじゃないですか?
だってあまりにも、文体も内容も円城ワールドなんだもん。文体はまあ、翻訳する時に癖が出るとしても。

タイムマシンが発明された近未来(またはパラレルワールド)。
タイムマシン修理工の僕(チャールズ・ユウ)は電話ボックスくらいの空間で、非実在犬のエド、女の子バージョンOSのタミーと共に体感時間で10年暮らしている。あるとき、修理工場で「もう一人の僕」を見た僕はパニックになって「もう一人の僕」を光線銃で撃ってしまう。逃げ出した僕は「もう一人の僕」が死に際に残した言葉「全ては本の中にある」の意味をめぐって、過去の記憶を読み(語り)、自分の父親について読む(語る)。そして・・・

ここで語られる「僕」の父親というのが、なんというか・・・昔の「文学」に出て来るようなある種の典型的な不器用な男なんです。
それを、子供である「僕」の目を通して描写していくのですが、「僕」がまだ小さい時は威厳に満ち万能の天才のように思えた父親が、「僕」が成長するにしたがって、卑小な存在に見えてきてしまうこと、そのこと自体に強い悲しみを感じていることが切ない。
息子は父親を愛しているのに、その父親への尊敬が自分の中から失われてしまった事への自責の念。何と心優しい心情でしょうか。でも、これに近い気持ちは自分が大人になって、老い始めた親を見た時に誰でも大なり小なり感じる気持ちだと思います。

変人だった父への愛惜、というテーマは「良い夜を待っている」を思い起こさせる、まことに円城的なテーマ。
っていうか、円城塔ってワケわかんないSF書き、というイメージだけど、例えば「これはペンです」などを見ても、読み終わって印象に残るのはテーマである「物語る」という行為の変奏よりも、変人の叔父との愛に満ちたやり取りの方だったりするし、友情にも篤い。
この「SF的な宇宙で~」も、タイムトラベルやタイムマシンをめぐるワケわかんない外見の中身は、そんな円城的な優しさに満ちた家族小説なので、内容的にも円城塔がいかにも書きそうな話なんです。
しかも、「タイムマシンから出てきたもう一人の僕を撃ってしまう」というのは、円城の「松ノ枝ノ記」で、「僕」が翻訳する作品の内容。そして、その作品を書いたのは実在しない「僕」の友人。
・・・これってどう考えても、チャールズ・ユウ=円城塔、な気がするんですけど・・・

でも、解説などを読むと、チャールズ・ユウというアメリカの作家の経歴が語られてはいるのよね。
とすると、もしかしたら円城塔が今の円城塔になったのは、チャールズ・ユウの作品世界に触れた影響が大きいのかな。
つまり、円城がユウを作ったのではなく、ユウが円城を作った?
うーん、個人的には、この経歴自体も創作なのでは、と思っているんですが。じゃなきゃ、アメリカで円城がユウ名義で創作活動をしているとか・・・!?
一体今度は、何を始めたんだ円城塔!?

どっちにしても、円城の読者であれば、この本を読んで私と同じような疑問にとらわれるのは間違いありません。
そこまで含めての作品じゃないかと思っています。
「これはほとんど創作である翻訳なんじゃないの? この本に書かれた親子関係は円城自身の体験がもとになっているんじゃないの? 自分をさらけ出すことを良しとしない円城が回りくどい手法を使って本にしているけれども、その事自体が、彼自身の親への気持ちの複雑さを表現しているんじゃないの?」
そういう、一つの表現方法としての翻訳なのではないかと。「疑いながら読むに限る本」というわけ。ヒントはやはり、「松ノ枝ノ記」なんじゃないかと。

・・・まあ深読みはともかく、この本が、久々に円城塔のピカピカでツルツルの文章を味わえる本であることは変わりありません。
私は円城作品は、内容は分からなくても文章を読んでいるだけで気持ちがいいです。
それにしても、子供の目を通して見る両親の姿は辛い。アメリカ人の夫婦ってなぜか、また一段と乾いた悲しさみたいな物がありますよね。アメリカという国自体が徐々に衰退しているからだろうか・・・。
そして「謝辞」のあとに置かれている「はじまりの物語」には特に、SFならではの美しさがあります。
時間SFと家族ネタは相性が良いのは、テッド・チャンの「あなたの人生の物語」などを思い出していただければ納得できると思います。
と、いうわけでこの本は、一言でいうと泣ける本です。
私は読んでいてヴォネガットの「スローターハウス5」や筒井康隆の「残像に口紅を」を連想しました。

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