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イザク

Author:イザク
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昔のSF。宇宙とかロボットとかそういうSFっぽいもの。
本一般。映画一般。特撮ヒーロー。仏像。友情モノ。
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ひさびさに、伊藤園の「おーい お茶」の新俳句から。
作者は14歳の女の子です。

皆さん、「もち投げ」ってわかります?
家を新築するとき、棟上げ式(屋根がほぼ完成したとき?)のタイミングで、家主や棟梁が屋根の上から紅白の餅をバラまいて、集まった人々がそれを争って拾う、というお祝いごとで、東京ではともかく今でも地方では普通に行われていると思います。
地方でも、庄屋さんの家とか、それなりに立派な家柄でしかやらないのかな?
私も今までに一度しか参加したことがありません。

小学生のとき、
「今日、〇〇の家でお餅をバラまくから、好きなだけ拾っていいらしいよ!」
という耳よりな話を友人が聞きつけ、ライバルが増えるといけないので二人だけの秘密にして(笑)、放課後こっそり〇〇の家に行ったのです。
集まっていたのはほとんど年配のオジサンやオバサンばかりで、始まる前には友人と私は、
「いい大人が小学生を相手に地面に落ちた餅を奪い合うとも思えないし、自分たちのほうが子供で動きも素早いから、きっといっぱい拾えるね!」
と甘く考えて勝手にワクワクして大きな袋を用意していたのですが・・・。
いざ、紅白の餅(丸いお餅でした)がバラまかれ始めると、それまでおだやかに談笑していた大人たちがいっせいに餓鬼道に落ちた亡者のごとく他人を押しのけ我先にと餅の奪い合いをはじめ、身体が小さくて軽い私たちはその集合体の中に入っていくことさえできず、結局餅も1個しか拾えませんでした。
「オジサンやオバサンは、可愛い子供にお餅をゆずってくれるはず」などと予想していた私たちは、この日、はじめて大人の世界の怖さを思い知りました。
あの日のことは忘れられません・・・。
今になって思い返すと、あのお餅、たぶん拾えば拾うほど福を多く拾うことになる、とかそんな意味合いがあったんだろうなという気がします。・・・それとも、ただ単にみんながめついだけだったのか(笑)
まあ、「取り放題」という言葉は理性を狂わせる言葉だなあ、とも思いますが(笑)

もち投げをはなれて見てる猫二匹

この句を読んだとき、そうした、子供時代の「もち投げ」の狂乱の記憶がまざまざと蘇りました。
そう、あの集団の中に入ってしまうと、大人も子供もなくなって、体育祭の騎馬戦とか棒倒しみたいな、一種のお祭りみたいな、変なテンションになっちゃうんですよね。
でも、一歩はなれた所からそれを見ていると、
「たがが餅の一つや二つのために争い合って、なんとあさましく馬鹿馬鹿しいことよ」
という醒めた目になっちゃうのも良く分かるんです。
猫が二匹、「人間がなにか大騒ぎしてるねえ。あいつらって時々、アホっぽいよね」などといいながら、それを見ているな、という場面をさらにもう一歩はなれた場所から見ている句だと思いました。

更にいうと、この14歳の女の子、自分ももち投げに行こうとして、部活があったとか何かで時間に間に合わなくて、その場所の近くにいったらもう始まっていて、大人たちが狂乱するさまを離れた場所から見ているしかなかったのではないかな。
(大量に投げられる餅も、一瞬で拾いつくされてしまう。後から行って参加できるほど、もち拾いは甘くない)
初めて「もち投げ」を外部から見て、軽く引いてるような気分も伝わってきます。
「もち投げ」という言葉じたいにおめでたい雰囲気があるうえ、猫が冷静な観察者であるという点が夏目漱石の「吾輩は猫である」なども連想させ、とぼけたユーモアのあるいい句だと思います。



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