プロフィール

イザク

Author:イザク
好きな物・好きな人(順不同)

昔のSF。宇宙とかロボットとかそういうSFっぽいもの。
本一般。映画一般。特撮ヒーロー。仏像。友情モノ。
西尾維新先生。舞城王太郎先生。荒木飛呂彦先生。奥泉光先生。円城塔先生。津原泰水先生。山岸涼子先生。松本大洋先生。三上骨丸先生。白鵬様。食パンちゃん。

カテゴリ

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:


シューマンの指 シューマンの指
(2010/07/23)
奥泉 光

商品詳細を見る


この本は、奥泉光の大ファンである私が、数ある傑作の中でもベスト3に入れていい(「NO,1です!」って言いきれない所が歯切れが悪くてスミマセン。だって奥泉作品は他にも傑作があまりに多いんだもん・・・)と思うほど好きな本なのですが、正直、ミステリでありながらラストがどのようなものだったのか全く覚えていませんでした(^^ゞ
ところがGW前にこのブログを読んだ方からメールで、
「このラストについてどうお考えですか?」
という意味の質問をいただいたのです。
具体的には、本の最後の「妹の手紙」という部分をどう読むか、という質問です。
情けないことに、そんな手紙があったことすらすっかり忘れ果てていたので、正直にそうメールでお答えすると同時に、
「奥泉先生の本は理詰めのミステリというより幻想小説だから、ラストとか真相とか気にしなくていいんじゃね?」
という傲慢な態度を取ったのですが、さすがにすっかり忘れていた本の感想を知ったような口調で人様にお送りしたのも心苦しく、かつまた数年前、この本を読んでいた時の至福の時間を再度味わいたくなり、GW中に再読してみた次第です。

この数年で自分の中にどのような変化があったものか、今回読みなおして率直な感想は、
「こんなにBL要素の強い本だったのか!」
でしたww

以下は激しくネタばれするので「続きを読む」で!

「妹の手紙」とは、語り手である元音大生の「里橋」が、天才少年ピアニストである「長嶺修人(ながみね まさと)」と共に過ごした数年間の記述を、すべて兄(里橋)の妄想だった、とする内容の、里橋の妹が書いた手紙です。
確かに、妹の説にしたがって、この里橋の数年分の、謎に満ちた手記を見直すと、すべて理屈では説明がついてしまうのです。まあ、一つの「夢オチ」といいますか。
しかし私が数年前に読んだ時の印象では、ラストでも謎は解明されず、修人の実像はあいまいなまま、ただ里橋の記憶の中の修人のもつ煌めきと存在感だけが残る、といった感触の終わり方だったように思うのです。
つまり、里橋自身もこの本のラスト近くなって、殺人事件(この本がミステリと呼べるのは、途中に謎の殺人があるから)の真相に迫る仮説を立てているのですが、妹の手紙も、そんな妄想と差の無い仮説の一つとして読んでいたんだな、と。
今回読み直して、妹の手紙がある意味すべてを綺麗に説明できる内容だったことには少々驚きました。
この本の感想に、「最後の手紙は蛇足。その前までの良さが台無し」という手厳しいものがあるのですが、どうなんでしょうね奥泉先生は「これが真相だ!」というようなつもりでこの部分を付け加えたのではないと思うのですよ。
この本の主体はあくまで、里橋の目を通してみた修人という謎めいた少年そのものであり、またその修人によって語られる、シューマンの音楽そのものです。殺人とか、正直どうでもいいです(っていうか、殺人があったことも再読して「そういえば、あったな」という感じ。自分、ファンとして酷すぎw)。

恋愛ものでも友情ものでも、はたまたBLでも、人が他者に惹かれていく感じ、どうしようもなく抗いようもなく心を奪われていく感じ、の描写が素晴らしいと、私はすぐ「傑作だぁ!」と思ってしまうのですが、この本もそういった意味で傑作です。
この本を読んだ人すべてが、長嶺修人という、色白で線の細い、神経質で人づきあいを嫌い自分を隠したがる、横顔の美しい天才少年に魅せられることでしょう。
里橋の、修人に向ける憧憬と熱い情熱とが、読者の修人に向ける思いと重なり、読んでいる間、修人に選ばれているのは自分だけだ、修人を理解しているのは自分だけだ、という思いが募ることでしょう。
そして修人が理解するように自分もシューマンの楽曲を理解したいと思い、この本の半分くらいを占める、シューマンのピアノ曲の解説をも、色鮮やかな修人の声のように聞いてしまうことでしょう。
(シューマン自身が、晩年、精神に異常をきたしたこともあり、この解説の数々は修人の人生を暗示するように、暗く不吉な調子を帯びたものが多いです。でも、そして音楽に対する過剰な語りが、小説全体にずっと通底音のように鳴り響いているのも効果的)

もうこの本全体が、修人に恋をするために描かれているといってもいいくらいで、読み進むにつれ、修人が他人には漏らせない苦悩を抱えているのが察せられ、ああ、何とかしてこの子を救ってやりたい! と思うようになります。
里橋がラスト近くに修人の告白(殺人の自白と、自らの病気について)を聞き、修人に「里橋さんのピアノを聞いていた」と言われ(初めて「里橋さん」と呼ばれ)、感きわまって修人の躯を抱きしめて唇を重ねるシーンでは、何か男同士であるとかBLであるとかそのようなことすら些細なことに思え、むしろこれが男女間の話であったらここまで透明な美しさは出せなかったのではないか、とさえ思えます。

かように、小説全体が美しくも悲壮な音楽のごときこの本の、ラストに「実は・・・だった」というようなどんでん返しがいくつも続いても、修人の魅力、修人に惹きつけられてやまない里橋の苦悩と歓喜、にはまったく傷がつかず、むしろ修人という特別な存在を現実という外気にさらさない為の緩衝材が何重にも巻いてある、そんな印象です。「謎に包まれた」というのはいかにも陳腐な表現ですが、この本の冒頭と終盤の、謎の頻出にはそのような意図を感じます。
「妹の手紙」に忠実に従うならば、修人の存在すら里橋の妄想の産物だった、という事にされてしまうのですが、「最後の手紙は蛇足」と言っている人にはむしろ、「こんな手紙だけで修人の存在を、彼と(里橋の存在を借りて)過ごした年月をあっさり否定してしまえるのか?」と聞きたい。一歩ゆずって、すべてが里橋の妄想だったとしても、これだけの豊かで鮮明な妄想は、もはや妄想ではなく少なくとも読者の主観の中では現実なのではないか? と言いたい。

なんか長くなりましたが、要するに、今回「妹の手紙」を読んでそれなりに筋は通るのは確認したのですが、この本の良さ、面白さはまったくそれとは別の場所にあるため、私としてはこの手紙、あってもなくても似たようなもので、多分数年たつとまた忘れてしまうでしょう(笑)。
ただ、何年たっても、色白で葦のように華奢な少年に恋をした記憶は薄れる事はないと思います。


関連記事
スポンサーサイト

コメント

また読みたいです

こんばんは。妹の手紙について質問させていただいた張本人です(^^;)。

私も、あの手紙が、真相とか結論というよりも、それ以前までとは異なる「事実かもしれないし嘘かもしれない」ネタをさらにいくつか提示して、物語をじつはさらに複雑にし謎を増やして終わった・・・という感じで読んだので、イザクさまの「何重にも巻いてある印象」と似ている気がします。
その重なりの不思議さが、えもいわれぬ趣きでたまりません。

あのとき読んだ後にも、「もう一度読んで、あれとかこれとか確認したり探したり再び楽しみたい」と思ったのですが、まだ再読できずにいます。
でも、イザクさまのこの記事のおかげで、もう一度読みたさが激増です。やります。

また印象が変わるかも

よは子さま、いらっしゃいませ~!
よは子さまのメールでムラムラとまた読みたくなって再読してみたのですが、やっぱり面白かったです。
ただ、今回読んだらすごくストレートな恋物語に思えて、何か私の中でタガがいくつか外れてしまったのかも知れないと思いました(笑)
よは子さまもぜひ、がんばってみてくださいね。また印象が変わるかもしれません。

小説の作りとして、こういった、幾重にも包んであるものが割と好きでして、古川日出男の「アラビアの夜の種族」とか、水村美苗の「本格小説」とかも、意味合いは違うのですが、同じような面白さを感じます。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://isaac936.blog.fc2.com/tb.php/656-f3c71a24

 BLOG TOP